結った髪を掴まれたことはあるか。瞼の上から目玉の形を確かめられたことはあるか。爪と肉の間に薄いものをあてがわれたことはあるか。膝を表から蹴りつけられたことはあるか。
暮れていく今日の陽を見たか。
「上を見ろ、上を!」
強引に顎を掴んで上向かせる、そんなところが嫌いだ。透けた月が浮かんでいる。
「ねえ」
「夢ってもう使い古されて、希望を感じないんだよね。手垢が付きすぎて、ありゃ駄目だ。凡夫のための絶望キットに組み込まれてる」
僕は両手の中の新書をちらと見下ろした。中身の話題や口上と、自分がリンクしないこの本を、半ば斜め読みにシフトチェンジしている。残り半分を読むかどうかを悩んでいる。
「行きたいね」
「そうだね。無いと知って絶望する夢を凌駕して、有ることを信じさせない希望にあやかりたいね」
「夢にあると仮説できるね」
「あるんだよ。夢に。夢の中に」
空を飛べそうな気がした。血迷っていることは知っていた。知識が僕を地面から浮遊させることなんてあるまじきことと信じていた。あの重力から解放するのか、知識が。まさか。
僕は覚束なく宙を飛び、思わずほころんだ顔を対話の相手に向けた。
その顔は匿名の誰かになっていて、どんな顔でどんな表情をするどんな口調のやつと話していたのか思い出せない。思い出せないが、心地よくもあった。麻酔の効いた自分の脳を、モニターで見ながら人差し指で混ぜているような。
「いいね」
「夢見心地ってやつだね」
今、歩行者用信号が赤に変わった。
桃源郷の話です。わけわかんね