創作に人生さきとう思うんだ

二次創作ばっかしていたい。

武装

妹は猫を飼いたがっていた。小学生の児童が、親に口約束をきいて、ペットを許されるのと寸分違わぬ流れで、妹は猫を家へ招き入れた。妹は小学生だった。例えにもなっていない。

俺はその時は高校生だった。己の生命を哲学し始めた時分だった。生命の温もりが、場合によっては俺を発狂させかねない程度に、神経質になっていた。

二年経った。妹は猫に餌をやらない。トイレの始末もしない。母にどれも任せている。この現象に気づいたとき、俺はアハ体験だと思えばよかったのだろうか。アニマルセラピーの都合のよい部分だけをせしめている俺は、もう猫の背中を撫でたり、猫の体温を抱いて確かめたりすべきではないと判断した。猫の世話を一切していない俺にはその資格がない。

 

遡って高校生の自分は、死にたいのに死ねないでいる日々に、臆病さと図太さを感じて精神的に不安定であった。明日、明後日、飛んで一年後十年後まで生きていれば、報われたと感じる瞬間が訪れるのじゃないかという、虚しさで泣き笑いしてしまいそうな期待。その安易。殴りたい。

的確にオーバードーズを起こして意識朦朧の内にぶっ倒れて茫然自失の顛末を食らいたいと思っていた。今も思っている。医学知識が足りない。

 

俺と同年代の人間が、俺と同じように希死を抱き、微睡みの中の死に準ずる心地の良い終末を願ったり、己の生命を神格化すればいいのか蹂躙してごみのように捨てればいいのか決めあぐねたりしているならば、それはなんということだろう。現代が最後の時代になるだろうか。もし、俺がメジャーなら、の話だが。というのも、死にたい奴も命を虐めたい奴も、それを名乗る人間に会ったことがないからだ。全く死はタブー視されている。死にたいと一言漏らせば、周りの人間は面白いほど身構えて言いやがるのだ、死んではいけないと。殺すぞ。

 

人間を殺めると法に抵触する。法律は詳しくないので掻い潜れる自信がない。だからタナトスを発散させて命を散らしたいときには、植物に限る。本当は猫の首をこの手で折って絶頂に比するであろう罪悪感を体に充満させたい。しかし動物の生命は怖い。臆病な俺は、片手の輪で包めるほど細い猫の首に力を込めて殺意を与えることができない。代わりに、死ねばいいと毎日願っているが、もっと本気で祈らなければ自分が殺したとは思えないだろう。藁人形など使って。

話を戻す。俺の破壊衝動、タナトスを、トマトとナスにぶつけた。初めは前向きに植物の世話をしたい思いで苗を買ったのだ。畑を小さいながらも耕して、毎晩水をやって、こまめに草を抜いた。いくつか収穫することもできた。

暑さがピークを終えて、トマトの枝の急成長が止んだ頃、水やりをするのを止めてしまった。前日まで面倒だと思いながらも続けてきたことが、もし強いられれば泣いて嫌がることも厭わないくらいに、できない。その日以降、水やりをすることはなかった。トマトもナスも、何年も前に母が世話をしていた時の収穫量を遥かに下回り、水やり以外にも足りない部分があったのではと考えないではいられない。

俺は植物を殺した。

ひとは他を犠牲にしなければ生きていけないという。主語はひとでなくとも成り立つ。全ての生き物は、か。それとも全てのものは、か。俺はせめて偽悪を名乗りたかった。悪ぶって、自己正当に励んで、他を圧倒するに足る強者であることを嘘でも表明してみたかった。

俺は弱かった。弱いのは、さしたる問題ではない。俺は自分が犠牲になることを受け入れられない、何かを犠牲にすることも耐えられない、杜撰な偽善者なのだ。死にたい。首を絞めたい。殺したい。逃げたい。後ろ指を指されようとも、卑怯者と罵られようとも、立ち去りたい。駆け出したい。出来ることなら消え去りたい。

鈍感に努めて、現在進行系で俺が犠牲を強いていることを忘れる。誰が、何が、どんな、犠牲を負っているのか、知れば、俺は、踏ん切りも付くだろうか? 猫は殺されたいだろうか。願っているなら叶えてやりたい。クソみたいなエゴ。ともにゆこう。