創作に人生さきとう思うんだ

二次創作ばっかしていたい。

守護者不知覚者

まだ見ぬ守護霊どのへ。ここへ自戒を含めて誓約します。

他人に見られても恥ずかしくない人柄であること、筋の通った社会的に明るい振る舞いを外へ現すこと、惰性に生きないこと。

と言えば言った傍から疑問を抱かれることと存します。私はこれを上下ともに下着の恰好で書いているものですから、これでは他人に見られては堪りません。私が鈍感だから肌着にパンツ一丁でも人前に出られる神経をしていると勘違いしないでください。他人よりむしろ肌の露出にはセンシティブであります。言い訳があるのです。

暑いのです。パソコンのデスクトップには35℃と表示がされています。しかしこれは信用できるものか不確かです。インターネットの接続を切っているので、切る直前の記録が存続しているものと考えることができるので。そう思っていたら案の定、インターネットに再度繋いで情報を更新すると、30℃と数値が書き変わりました。

多湿だとか。

あっそ。

さて、一秒たりとも孤独の時間が取れないのが、守護者のいる暮らしと浅はかに推測しているものですが、やましい行為の際はすっと傍を離れていて、終了すると静かに帰ってくるのでしょうか。都合がよいようにも思いますが、守護者側も、その当人の気の赴くままに単独行動をするのなら、フェアであると考えます。もし私が次に書く小説か連載漫画(4コマ)に守護者との暮らしをかくときは、帰ってくる家、部屋が同じである以上の深い繋がりを、互いの息遣いを感じられる距離にいることには求めないように意識してかきたいと思います。余談になりますが、私は手グセでものをかくと、自分の話、或いは箸のような、竹馬のような、マジックの本体とキャップのような、セットでないと話にならない関係性ばかりをベースにしてしまうのです。

ほら、今のは自分語りです。

今日の特殊イベントのことを書きましょう。他日と差別化するのです。

中一の妹と実力診断テストを解いたことは後で書きます。勉強の話ならいくらでもしたいのだけど、楽しい顔をして聞いてくれる人間がいない。今後はここに書こうかとも考えています。

閑話休題

今日は、未来の卒論執筆に備えてごく短い論文を日ごろから読む習慣を得ようとしています。というのも、論文では論の筋道の立て方が定型化されています。これは小説ではまず習得できません。他にも新書や入門向け解説本など教養から学問へ歩み寄る書籍も存在しますが、これは文体研究には最適とは言い難いと見ています。書いてある内容は一考の価値がありますが、論文の書き方を捉えたい私が読むべきは論文そのものでしょう。

前置きが長くなりましたが、今日も論文をひとつ読みました。その内容について感想でも認めて、積極的に読む姿勢をつけようかと、思ったのですが、面倒に感じましたね。今。しかも文体研究するっつっときながらやっとること内容要約か? 矛盾じゃねーのか?

 

もはやとっくに宣誓要素は忘却の彼方になりました。時間を割いてもらったついでにあとひとつ、付き合ってもらいたいと思います。ここの文章と、万年筆で書いている文章の内容が、私の脳内では媒体差しかない同一物と判断されています。このふたつを別物に設定しておかないと、すぐに支障が出ます。ずばり、なんでパソコン開かなきゃいけないの? とね。

パソコンでは小説書きゃいいんですよ、ポエムでもいい、何でもいいから創作物を。うん、うん…

しかしメタ発言をすると、私は第4の壁を造ってその外側から世界の全知の存在として見下ろしてにやにやしたいから、設定資料集を組んで、本編のところは誰かかくのが楽しくて仕方ない人とか使命感を抱いている人とかに丸投げしたい…。なんてな、そんな他人いねーよ私にはいない。独力でやるんだよ。

他人のことが好きじゃないと、凄惨を自家発電して悦に浸ることなんてできません。エロ、グロ、鬱、死ネタ、破局、エトセトラ、とてもハッピーとはいえない展開を入れられるのは、愛ゆえです。方向性が歪んだり狂気に走ったりしている結果ともいえそうですが、愛が理由でとんでもねえ描写や目を塞ぎたくなるような胸糞展開などで登場人物を苦しめられるのです。

私にはそれほどの愛があるか。ということを言っているのです。

とても殺そうなんて思わない。その命を背負うまでの愛がないからだ。

自分のこの万事愛情解決論はキャラに合致していない気がするのだけど、

 

愛だ愛だと言い過ぎて、愛のことを把握し尽くした気になって、その思い上がりは盲点を作っていて、それに名の通り盲になって、まるで私有物の扱いで愛を語る。汚らわしい。お前はもう黙れ。今後は愛の語を使わずにそれを抽象しやがれ