創作に人生さきとう思うんだ

二次創作ばっかしていたい。

前夜

自分には、なにかを育てることへの責任を持つ実感がない。そういう実感を、持てないとでもいおうか。下の兄弟に対して、自分の一動により学業の成績に始まり当人の人格形成をも包括する介入をしようと思ったことは無いし、したくないし、それに、悲観的にいえば、出来ないと分析している。自分には、育成観念が備わり切っていない。中途半端に手を出して、駄目にしたくはないのだ。自分のせいで活かせなかったと、否が応にもわかってしまう。どんな第三者よりも痛烈に、自分がそれを知る。考えるだに、恐ろしい。

そういうわけで、また逃げます。

少し他人より飲み込みが早くて、多くを理解しているからって、それ以外の検討を排して、簡単に家庭教師をやれと、どうして他人というのは浅はかな事ばかり言うのだろう。考えてものを言っていると感じさせる発言ができないのか。脊髄反射で会話をするなんて、知能を働かせない低レベルは御免だ。もっと脳を使わねばならない。持てる知識で知恵を絞り、深淵なる思慮を築き上げることを、人間は必死で全うすべきだ。

自分は、この脳が他人に解説を与えて理解に繋げる技能を持たざると判断したゆえ、今から教育の義務を放棄します。

畑も同時に捨てることになりますが、所詮私とはそういう人間なのです。己のために、周囲の生命を無下にして、罪悪感を覚えないような鈍麻の表情で生き永らえることのできる、ありふれた人間なのです。

 

早速家を出ようと思っていた。置手紙は今書き終えた。台所のテーブルの上に置いて、今日中に家族の誰かが気が付くようにしておく。人の気配のない台所、ひとり夏の熱気の中に佇んで、当分の離別を思う。今日中は、少なくとも家に戻るつもりはない。従ってこの暑苦しい台所にも、しばらく別れを告げねばならない。冷房を入れない台所で、パソコンと向かい合って朝ご飯を食べるのが習慣だった。

「いってきます…」

いつ帰るのか、わからないけれど。

 

日中なので、図書館を宛てに歩いた。月曜日ではないことは、玄関の鍵を掛けながら思考の隅で確認した。今日は金曜日だ。開いている。30歩もいかない内から、肌が汗ばんで気持ちが悪い。図書館まで行けば冷房が効いている、が、その後は一体どうするつもりだ? 完全に日が落ちて、アスファルトの熱が冷めていけば、冷房のない場所でもほとんど健康上の心配なく過ごせるとは思うが。いや、野宿か? その覚悟が、あるのか?

まるで心臓が汗をかいているようだった。嫌な汗だった。半ば、計画の白紙化を推し進めているところだった。

猫が声を掛けてきた。その時は、てっきり猫が話したのだと思ったのだが、今思えば、猫が喋る必然性はないのだ。猫にはわかりやすい話者としての特長があったというだけ。その、口を持っているという特長で、事を把握した気になっている自分を恥じる。

きっと、猫の脇に生えそろっていた草のなかのどれか一株が喋ったのではないかと思うのだ。いや、一株だと多すぎるのか。その株から地上を伸びた、ひと茎が、その一本の茎とそれに付随する葉が、私に対して人語を介して…。

その猫は、私に軽んじた笑みを湛えた顔を見せ、超然とした態度で言った。

偽悪ぶるだけの度胸がお前にあるか、と。

 

「水、やらないと死んでしまうんだもんな。私が毎日水をやらないと…」

畑でミニトマトに水をやる。空は黒く、呆然とするような夜が広がっている。スマホのライトで手元を照らしながら毎度感じる時間の停滞している錯覚を闇に見る。ナスはひょろひょろとして、ミニトマトの茂りに威勢を削がれたような格好に見える。枯れかけていやしないか。毎日、晩に、水をやっているのに。

育てるのは、難しいのかな、私には。

答えなんていらない。すべての育成から縁を切り、私は自分の拙いエゴの肥大を見守る。もうこれは、育児放棄。いらない、いらない。生き物の生存権を握ると、その朽ち行くのを私の前に晒してほしくなってしまう。私のせいで、死んでゆく、枯れてゆく、生きるを奪われている存在を、淡々と見下ろして蹂躙している。

最後に自分を蹂躙して、この性癖を終わりにしないか。

まだ先のある悪癖が本番の芽吹きを迎える前に。