創作に人生さきとう思うんだ

二次創作ばっかしていたい。

書き損じ

viorenisist

音楽室にこもりがちだというのは、その学校に通う者ならばみな知っている噂だった。あまりに侵蝕が激しく、新入生もひとつき経てば、噂拡散の媒介人の趣を身に付けてしまうくらいであった。誰も、その噂を広めることに躊躇しなかったが、では何故噂しないではおれないのかということは、わからなかった。三階女子トイレの三番目の個室の扉をノックすると云々…といったベタな怪談と似た扱いで、その噂を共有している。本当のところは、誰もこんな内容の信憑性は把握していないし、真偽の如何ほども興味の的ではないというのが、学校全体の専らの空気だった。

そういう下らねーミームを、記憶領域に保管している自分の脳が憎らしい。読書に集中したかったのに雑音で妨害されたことにも、雑音を耳に入れないでいられる能がないことにも、不愉快を覚えて闇雲に廊下を突き歩く。階段の踊り場に掲示してある月例の手作りポスターを見て回る。

狙ったように、音楽室の前の階段を昇り、右に折れてすぐの教室へ

 

気分が乗らないんだが。これもまた飽きずにただのBLで、まあそれは別段気分に影響していないにしても、今日は一段と苛立っていて、それを匂わせることが作風に合わないこの小説は書きづらい。所詮プロではないということだ。自分のその時々の気分の波に合わせなければ、小説のひとつも書けない。

ならば今の気分に即した苛立ちありきの小説でも書いてみろ。

 

 

私は自分の眼を、鏡越しに見て、じっと目を合わせたことがある。これが人間と、いや、きっと人間であると信じたがっている未熟な生き物かもしれないので人型の者との、目を合わせた経験である。唯一の、何度でも再現可能の、間違いのない事実である。私は、私以外の人型生物と目を合わせたことがない。

きっと人の形をしている生き物はみな、人間と呼んで差し支えないとは思う。人間以外に、人間のような生き物を見たことが無い。それはそのシルエットからも、思考するという癖からも、集団の装いからも、他にも色々と特別視される要素を抱えているから人間であると判断できるのじゃないかと、これは私が出まかせを言っているのに過ぎないのだが、人間の理由を緻密にすることは今回の骨子ではない。しかし「人間」を定義しそこねると、後ろでとやかく詰問されそうな嫌な予感がしたのだ。

人間とは、その瞳に言葉を宿して雄弁に語る生き物である。

私は日に一度は鏡を見ている。風呂から上がったとき、寝間着を纏い、両方の目頭を指で摘まんできゅっと中央に寄せる。眼球と、機能の不明な穴のある瞼の肉の触れ合う境界が晒される。それを見る。目頭のところに目やにが居ることがある。見つけたら指で掻き出してやる。そういう目的で、私は毎日欠かさないで鏡を見ているのだが、このときどれだけ熱心な思いでいても、自分には何の言葉も読めない眼が映る。何を思っているのかを、まさに脳内で言語化しているから、眼球にその思うところを表出しないでいるのだろうか。

諺がある。あの諺が原因で、私が他人の眼を見ることに比類ない怯えを感じるというのではないはずだが、あの諺があるから、私が他人の眼を見ないのだと説明するのに引用するのだ。もしこの諺がなかったら私は他人の眼を見ようと苦戦したろうか? アイコンタクトはコミュニケーションの一環だとかいう社会マナーの遵守のために、骨を折ったろうか?

最近は、なにかと物を考えると精神的に不安定になり、いつでも何にでも苛々とし、破壊衝動に見舞われ、八つ当たりの衝動を抱える己をはっきりと俯瞰することもできないなりに内省しては薄暗い気持ちになり、湯船では膝を抱えて顔を沈め、泡を吐ききる前に苦しくて水から面を上げてしまうような、それを悲壮な面持ちで眺める、至極に退屈な日々を送っています。退屈であることの意味も歪んできている所感です。怒りが私の精神を染めて、このままデフォルトに怒りが浸透すれば、私の精神は薄く怒りの色に染まったまま、簡単な水洗いでは落とせなくなる予感がします。一切を無常と思えば、そんなこと、取るに足らない事象です。気に咎める自分の感覚ごと、怒りに支配されていく経過を観察するのは却って面白いだろうとも思います。

まあ、退屈でしょうけれど。

他人の眼を見るのがこわい。誰かが、猫の目は底の無い穴のようで背筋が冷えるようなことをいって興奮気味に喋っていたが、猫の眼よりそう捲くしたてているお前の眼を見る方が怖いよ。そこに私に致命傷を与える言葉が映っているのじゃないか、他人の眼に映った自分の姿に浅ましく醜悪で凶暴な抹消欲求を掻き立てて已まない性質を見出して気の狂う思いをするのじゃないか、等々・・・。退屈、退屈な文章だ。書かない方がよかった。

今日は読んだ小説が4年前の自分を思わせる自己肯定感の空回った文だったもので全部読んだら後悔するだろうなど考えていた。数は少ないが存在している外れ本であった。まだまだ見る目が足りていない。審美の術を知りたい。

ああ、でも綺麗なものしか見てこなかった眼では、綺麗なものは判断できないのか。・・・そんな論法で、なにかを成すには短いと有名な人生を、駄文の読書に費やすというのか。