創作に人生さきとう思うんだ

二次創作ばっかしていたい。

不埒

家族の成り立ちに思いを馳せてしまった。こんなことは今までに一度も経験がない。自分の死に方を探すのに熱心だったから、漏れなく他人を含めて構成する家族というものに、熟考の手が及んでいなかったのだ。

初めての試み、いってみようじゃないか。反出生主義に落ち着くことが見えている思考の道筋を、今から開拓していく。

さあ、家族という族ができるためには、自分の身ひとつでは足りない。少なくとももう一人、そういう族を作りたいと希望している者を見つける必要がある。ここで行われるのが、現代では専ら結婚の原因となっている恋愛であろう。これに異議はあるまい。私も個人的に恋愛の情動という大事かつ 面倒事には関心があり、当事者にはちっともなりたくないが、どいつも似たりよったりな欲望を抱えて特定の相手に偏執する症例報告を見るのはたまにやると楽しい。しかしあれが本能として人間に備わっているのだと仮定すれば、恋愛などした瞬間に、私は人間の種としての概念の前に敗北したことになるのではないか。恋愛、ひいては性愛、つまるところ生殖のための本能が私を動かしているといえてしまう。そんな私は正中を突いた人間であり、なんだただの人間かと一瞥の後に印象にも残らぬ他愛の無さ。

認められない。どうしても、この人間には定義されたくない。直感的な抵抗である。

家族というものは、こうして生物種らしい行為の向こうに成立するのだ。まるで理性を感じない。なにか絶対的な潔癖を疼かせる不快が潜んでいる。

想像するに、特定の相手とセックスをする、セックス時の相手の姿を知る、セックスを経験した者同士で放ち合う電波でもあるのだろう、それが家族の始まりか。なんだそれは。

子は知らないのだ、セックスし合った関係にある人間と、そうでない人間との違いを。

私は現在特にセックスが嫌いなので、この言葉を無駄に乱用しながら反出生主義の結論に導いていく所存だ。己の定めた哲学のために、性的な欲をも捻り潰す。理由は現状よくわからない。しかし恋愛は不可解かつ不愉快な現象であり、その情動がもたらす行為としてのセックスも同様であるといおう。当然、不貞行為は言語道断につき、私の世界には存在してはいけない。もしも固有名詞の誰それがそれを働いたと知ったら、抹消する。

ああそうだ、恋愛潔癖論を言い放っているのがこの文章だ。なにが悪いのか。セックス経験者は汚れている、と表現しておいて、酒や煙草と同じじゃないか。誘い込もうとしてんじゃないよ。甘言のつもりか。

馬鹿らしいね。潔癖貫こうとしても汚れて仕方がない浮世に墜ちている時間を短縮するしかないだろう。思考が淀み、行動に錆が付き、声は張りを失い、精神が疲労を忌避し、全霊が背徳を悦ぶ己を排そうとするだろう?

死ぬのが最善手なんだよ。いつもそうだ、さっさと死ねれば一番善いのだ。世界がこの舞台ひとつなら、特にそうするべきだ。止めておく理由の方が少ない。

情などすべてくそ食らえ。全員まとめて死んでくれ。