2022/2/14
水底は見えない。淀みなく流れる水を追うともなしに視線を下げる。日中の川面は陽光を反射して時折視界を明滅させた。
敦は欄干に触れて、しばらく橋の下を流れゆく水を見ていた。音はなく、黒いような、線がかかっているような、青のような、暗い色を感じた。
隣にいた太宰がふと口を開く。「知っているかい?」欄干に背を預け、肘を支えに空を仰いでいる。敦も一緒に上を見てみる。
仕事をするはずが、どうして橋の上でゆったり青空を眺めているのだろう__、そんなことを思った。
「自殺するのは、人間だけだ」
いつもと雰囲気の異なる物言いに、上げていた視線をぐっと落とす。太陽の昇った天を向いているはずの太宰の眼は、黒く、暗かった。
「……」
何を言うべきだろうか。思案した。からかうべきか、深刻に返すべきか。どんな反応が欲しいのだろうか。そもそも、反応を求めているのか否か。
息を詰めていると、太宰の横顔がふっと緩む。張り詰めた緊張感のようなものもどこかへ消えた。
「つまり私は立派に人間しているわけだ!」
ハハハと笑い出しそうな快活で、しかし人間失格だから矛盾しているだとかこの矛盾で混乱を招くロジックはどこかで役に立つかもしれないだとか言っている。
普段の様子に戻った。
敦も、人間失格者が人間だなんて皮肉だと野次を飛ばした。二人でしばし笑いあう。周囲の者は、それが物々しい話題であるとは察せなかったあろう。
すぅと風が通る。
談笑の波は止み、再び敦は川を見る。先程は天を仰いでいた太宰は欄干に背を向けた体勢は変わらず、自動車の行き交う路面を見ているようだった。
「僕もひとつ、知っていることがあるんですけど」
へえ、何かな、と先を促す返事はなかった。敦は太宰の方へ身体を向けて言う。人間だけが、抱擁できるのだと。腕を回し抱き締める動作ができるのは、人間の骨格が為せる業であると。
腕を開く。受け止められるように。包容できるように。
「立派に人間していいんですよ」
段々気恥ずかしさが増してきたのを誤魔化すために破顔する。大層なことをしでかした反動で一時も視線が定まらない。瞼を下ろして視界を遮断し、相手の反応を見ないで事を流したい欲が瞬々の度に首をもたげる。ハグの構えをして待つというのは、これは想像以上に、精神負荷が大きい。それに思えばここは橋の上、人目を気にするならばアウトなのではないか?
ぐるぐると駆け回る、構えを解くか続けるかの二択、真剣に検討しようと傾きかけた。あの台詞からものの数秒、しかしそろそろ限界だ。
羞恥心に殺される。
と、徐に敦と向き合うように歩み寄る太宰。表情は読めず、物言わぬまま、立つ。思わず身構えて力の入った敦の肩に、とんと額を下ろした。手はコートのポケットに入れていた。
目を閉じて暗闇を見ていると、強張っていた力が抜けたのが額越しに伝わる。それから少しすると、震えるような手が背中に触れた。おずおず、といった体で背中を上下に撫でられる。幾度か繰り返すと手慣れたらしく、暗闇にいる自己の形を任意に型取られるような気分になった。
ポケットに仕舞っていた手を伸ばして、闇の中から抱擁をした。
敦君という人の形を知ろうとした、というのではないよ。きっと。