指から赤い糸が伸びている。
気が付いたのは朝食のときだった。卓上の醤油、少し遠くにあったから、左手を伸ばした。醤油瓶と自分の手の甲が視界で重なったとき、腕の陰になにかが垂れているのが見えた。驚いて腕を返したら、小指から糸が出ていたと。赤い糸。ぎょっとしてまじまじと左手を見詰めて固まっていれば、周りが俺の異変を察知して声を掛けてくる。なんでもないと応えて醤油瓶を渡してもらった。怪訝そうな顔や不思議そうな顔をされたような気もするが、すぐに朝食に意識を戻したらしい。またいつもの騒がしい空気になった。
「あれ、どっか出掛けんの」
居間を突っ切って玄関へ向かおうとすると、おそ松兄さんが言った。多少驚いてます、みたいな声色にはいらっとするが、確かに俺は日中の太陽光がギラギラしている時間帯にはあまり外に出ない。そろそろ夏も本番で、部屋の中に居てさえ溶けそうになるのに、なにが良くて直射日光を浴びて融解しなきゃいけないのか理解に苦しむ。そんな俺が珍しく昼下がりのうだる暑さの中に自ら飛び込もうとするのだから、そりゃあ驚くのも無理はないのかもしれない。
「...ちょっと」
「あ、そう」
さして興味もなさそうに、おそ松兄さんはちゃぶ台の向こうに大の字になる。どうやら会話は終了したらしい。お互い無意味なことに発声の労力を使ったのではないかと疑問が湧くが、こんな疑問を解くための脳の労力も惜しい。さっさと玄関に向かい、履き慣れたサンダルを突っ掛ける。と、今度は別の刺客が声を掛けてくる。
「気を付けて、帰ってくるんだぞ」
サングラスを意味不明にカチャカチャと直しながら、腹が立つ登場をしたのはカラ松だった。オードリーの春日なのかお前は。反射的に顔が怒りに歪みそうになるわ、舌打ちなんて呼吸同然にかましそうになるわ、死ぬ気で自制しないと拳が奴の右頬にめりこみそうになるわで大変だった。脳味噌がガタガタと沸いてるが、なんとか平常心を装い、扉を開けた。無視するんだ、こういうときは無視なんだ。頑張れ一松、耐えろ、事を立てるな...。俺の拳が磁石のように引き付けられ、奴の顔面を殴る前に、無事に家の外に出ることに成功した。しかし俺の脳味噌と精神的な平穏さは無事ではない。現在、不審者並みに息が荒いが、誰にも見られずしばらく歩けば落ち着くだろう。...フラグが立ったことなど気にしない。
さて、なぜ俺はこんな暑い中、わざわざ生贄になるがごとく街を歩き回っているかというと、それは他でもなく、朝見つけた赤い糸が原因だ。今日の今日で行動に移してしまった点には、俺自身がいちばん驚いている自信がある。普通こんなことしない。めんどくさいし。でも...。地面を頼りなく伝っている糸の向こう側に、誰がいるのか、わかるなら見たいと思った。今までなら、仮に興味があっても知ろうとして行動に移すところまではしなかっただろう。だって面倒だから。真夏に糸一本を頼りにしてうろうろするってかなりだるいじゃん。あぁ、なんで外に出たんだろう、溶ける。
「...喉、渇いた」
そろそろ足が疲れてきた。一時間くらいは動き回っただろうか。赤い糸回収作戦は終わりが見えず、俺の腕にはセーターが一着編めるんじやないかというほどの束ができた。この糸もまた通気性が悪く、暑さを助長する。そして何も考えずに家を出てきたので財布はない。水分補給ができない。たぶん今日ミイラになるわ。赤い糸を腕に束ねて干からびるって、馬鹿みてぇだな。運命の相手とやらがいたとして、死んだら意味ねぇし。からからに渇いた喉の奥から、水気のない笑いがこぼれた。
やたら長い糸だった。まじで終わりが見えねぇ。あと少しだろうと何回言い聞かせたか、もうわからない。心折ってもいいだろうか。十分頑張ったし。今日は人生史に残る頑張り見せたわ。もう諦めてもいいでしょ。途中公園の中に糸が通じていた。水呑場で浴びるように水を飲んだ。なんだか腹が立って、頭から、今までに集めた糸もろともびしょびしょになってやった。そうしたら少しの風でも涼しくて、どこかから頑張りが湧いてきやがった。いらっとした。
「...チッ...居るなら早く出てこいよ...」
赤い糸の先に居る人間のために、滑稽なほど苦労している自分に腹が立っていた。顎からボタボタと水を垂らしながらぼやく。...こうなったら意地でも見つける。
「...ただいま」
夕飯の準備中なのだろう、台所からひっきりなしに音がする。居間もいつものように騒がしい。物を投げ合う音がする。デカイ子どもしか居ない家だもんな、鼻で笑う。すっかりくたびれた足は、もう家の中を歩く分にしか使えない気がする。今日はもう出掛けまい。のそのそとサンダルを脱ぐ。溜め込んだ赤い糸が暑苦しかったし、重かった。どうしたものか。
「...つうか家に繋がってるって、どういうことなんだよ。うちの誰か、なのか...?」
ひとり呟いて、鼓動がおかしくなるのがわかった。もしそうならこの糸の終わりに居てほしい人間がいる。でもそれは所詮俺の願いで、運命とやらが聞き入れてくれる大層なものではないだろう。ここに来て、赤い糸がどこに繋がるのか、それを突き止めるのが恐ろしくなった。知って、本望じゃなかったら、どうすればいい。死ぬか?死ぬか。
「一松?帰ったのか」
今度はサングラス無しのカラ松が、ぱたぱたと迎えに上がってきた。意味不明にぴょんぴょんしたオーラを感じる。何か良いことあったのか、こいつ。毎日毎日お気楽でいいですねー...。出迎えのカラ松の横を素通りする。もうただいまは言ったし。
「...!?それ、何だ...?」
「は。...これ?」
腕に下げた大量の赤い糸を少し掲げると、カラ松は強ばった顔で頷いた。何なんだその顔。怖いんですけど。拾ったと答えたが、何も返事がない。考える脳味噌の無いこいつが、まさか思考とやらを知ったのか...?地球の危機だ。天変地異も直起こる。怖ぇー。...という茶番がつまらないボケにしかなりそうにない、まじの顔付きをしやがって、カラ松は自分のズボンから掌サイズのものを出して見せた。赤い糸だった。え、と言うと、え、と返ってきた。うぜぇ。山びこやってんじゃねーんだよ。説明しろと脅すと、不安になるほど自信なさげに話した。たぶん繋がっていると。
「......」
「...」
俺は焦点の定まらない視界を他所に、めちゃくちゃに脳味噌を動かした。つまり、すっげぇ考えた。狂いそうだった。喉から内臓が飛び出てもおかしくないと思った。身体中の血が暴れた。心臓なんて破裂しても変哲なかった。耐えた心臓はすごい。途中で、帰ってきたトド松がこちら二人を凝視して、無言で家に入っていったかもしれないが、よく見えなかった。居間から、扇風機で宇宙人声を出す十四松の声が聞こえてくる。そして段々と感覚が戻ってきた。心臓のピンチや、肌からどばどば溢れる汗。今日がくそ暑い日だったことも思い出した。
「死ね!!!」
必死こいて集めた糸の束を、まるごと全部カラ松にぶつける。なぜか顔面が火を吹きそうだった。激辛料理を食ったらこんな感じかもしれない。遠慮なく足音を立てて廊下を歩く。静かに歩く余裕が無かった。誰かブチギレてんの、という声が戸の向こうから僅かに漏れている。返事はしない。ずかずかと廊下を進んだ。
突然手が後ろに引かれる。特に小指が。千切れるかと思った。ゾッとしながら振り向くと、まだ玄関に立っているカラ松が見える。小指切断未遂事件とカラ松との連関が処理されていたら、俺はカラ松を葬りに行った。だが現実はそうではなかった。俺の脳味噌はあまり使い物にならないらしい。わかってたけど。俺が投げつけた赤い糸を抱えて、能天気にへらへらして、心底嬉しそうな顔をして、カラ松は
「ありがとう」
と言った。余りにも腹が立って、声すら出なかった。全身が異常に熱かった。今日が暑かったからだ。
「...明日殺す」
あの暑さで頭は沸騰してしまって、機能が故障したらしい。赤い糸の終わりがあったこと、相手がお前だったことを素直に嬉しいと思っていた